中国四千年の歴史の嘘~黄河文明の成り立ち

Youtubeで見たこの番組が面白かったのでご紹介します。

「皇帝たちの中国 第1回 中国人はどこから来たのか」


なぜ広い中国の中で、中原と呼ばれる一部の地域で黄河文明は発生したのか?
という疑問について答えてくれます。


番組で語る宮脇さんによると、もともと古代中国には漢民族という概念はなく、中国にはいろんな民族が住んでいたということです。

古代中国では、異民族のことを方角に分けて四夷と言いました。

当時の四夷とは、
東夷・・・山東省近辺に住む漁労民
北狄・・・河北省や山西省近辺に住む狩猟採集民
西戎・・・陝西省や甘粛省近辺に住む遊牧民
南蛮・・・四川省や湖北省近辺に住む焼畑農耕民

とすると、夏王朝、殷王朝といった当時の古代中国では、中華は河南省あたりの範囲でしかなく、それ以外の地域は異民族の住む化外の地だったんですね。
三国志の魏志の東夷伝で倭人が紹介されていますが、三国志の頃には山東省あたりは既に中華文化圏に取り込まれていたため、朝鮮半島や日本が東夷と呼ばれるようになったというわけです。


ではなぜ中国の中で、中原と呼ばれる一部の地域で黄河文明は発生したのでしょう。

その答えは黄河が作り出す地形にありました。

黄河は太行山脈、秦嶺山脈などの山々に行く手を阻まれ、蛇行しながら黄土高原の中を流れますが、黄土高原の地質はもろく削られやすいため、黄河は大量に土砂を含みながら流れてきます。
そして黄土高原を抜け、河南省で秦嶺山脈にぶつかり最後に東に流れを変えた後は、そのまままっすぐ渤海に注ぎます。
しかし、秦嶺山脈にぶつかったところで黄河が運んできた土砂が堆積し、その地域では豊かな土壌を作りますが、それより東側では黄河がしょっちゅう氾濫し、耕作に適さない土地でした。

ですから、現在の河南省の洛陽周辺の中原とよばれる一帯は、周りに比べて実り豊かで治めやすい土地であり、かつ周辺の東夷、北狄、西戎、南蛮の様々な民がやってきて交易しやすい場所だったために文明が発生したというわけです。
ちなみに、殷王朝は自分たちの国を「商」と呼んでおり、交易を生業とする商の人から「商人」という言葉ができたそうです・・


そしてその中原に中華という概念をもった民族が住んでいたのではなく、四方からやってきた様々な民族が都市国家を形成していた、というのが実情のようです。

実際、古代中国の夏(BC21~17世紀)は東夷が中原に移り住んで作った王朝、
殷(BC16~11世紀)は北狄が中原に移り住んで作った王朝、
周王朝(BC11~8世紀)は西戎が中原に移り住んで作った王朝なんですね。

そして大事なことは、その夏、殷、周は、中原にいくつかある都市国家の中で一番有力な都市国家なのであって、私たちがイメージする中国全体を支配する領域国家ではない、ということです。


で、周王朝が力を無くし、各地方の国が力をつけ覇を争った春秋戦国時代を経て中国を最初に統一した秦も、もともと西戎の民であったのが力を付けて東に勢力範囲を広げていき、最終的に全国を統一しました。
秦(qin3)から派生して、Chinaや支那という言葉が生まれたというのは有名な話ですね。

秦の始皇帝は、それまで各国で違っていた文字、度量衡、暦、車幅などを統一します。
度量衡や車幅を統一することで交易はますます盛んになり、文字を統一することで互いの方言が全く通じない相手でも、文字を通してコミュニケーションを取ることができるようになります。


「文字の統一によって、やっと中国は『漢字を共有する一つの民族』として中華民族という意識を持ち始めることができた」
宮崎さんはこのような説をとなえます。


おそらくそうなのでしょう。
中国だけでなく、日本の古事記・日本書紀やユダヤ民族の旧約聖書でもそうですが、どの民族の歴史も自分達の民族の正当性を訴えるために
「わが民族は神代から脈々とつながる民だ」とか
「わが民族は最初から純血を保ってきた」
といった歴史を捏造するわけですね。

中華民族も色々な民族が混ざり合って、それぞれの文化を持ち込んで変化していき今日に至ったのでしょうね。

中国駐在、加油!



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